2018年11月25日 小雲取越(本宮大社から小口へ)
小口の宿の予約が取れなかったので、テントを持って行くことも考えていたが、廃校を宿泊施設にした小口自然の家がやっと予約できたので、出発した。
1日目は本宮に車を置き、本宮から小口までの小雲取越えを歩き、小口泊。
2日目は小口から那智の滝までの大雲取越えを歩き、バスで那智の滝からJR那智駅、JRで那智駅から新宮駅、バスで新宮から本宮まで移動し、本宮に置いていた車で帰る計画。
小雲取越地図
11月17日(木)
<コースタイム>
8:15 本宮
9:05-10 請川古道登り口
10:15-25 松畑茶屋
10:55ー11:05 百閒ぐら
11:25-25 賽の河原地蔵
11:45 石堂茶屋跡
12:38-50 桜茶屋跡
14:10 小口自然の家(元小口中学校)
8:15 大斎原(おおゆのはら)
明治22年の洪水で流されるまで、熊野本宮大社はここ熊野川・音無川・岩田川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にあった。平安時代から明治22年まで、長期に渡って熊野本宮大社はこの中州に鎮座していた。
大雨が降れば大量の砂利が流れてくるので、砂利が堆積して川底が上昇し、氾濫するようになったのだろう。
8:20 昔の熊野本宮大社跡
8:37 熊野川 上流(本宮)方向
8:37 熊野川下流方向
9:02 請川
本宮から請川までは熊野川沿いの国道168号を歩くが、ここ請川より古道に入る。
9:17 針葉樹の中の熊野古道
9:21 杉林の下に千両と万両が何本も生えていた。
9:50
昭和30年頃に、熊野街道周辺に針葉樹林(杉・檜)が植林され、ほとんど針葉樹林(杉・檜)の中を歩くことになるが、僅かではあるが本来の薪炭林(コナラ、クヌギ、ウバメガシ、サクラ、エノキ等)が残っている。
9:50
10:15
今の針葉樹林の熊野街道は、薄暗く風は通らず、眺望も悪く、新緑や山桜や紅葉や昆虫とも無縁で、鳥のさえずりも聞こえない。
10:15-25 松浦茶屋跡
10:30
10:50
杉林の中なので、眺望は悪い。
10:50
一部の隙間を拡大して写真を撮ったが、本来の熊野街道はこのような遠望が楽しめたので人気があったのだと思う。
10:55
昭和30年頃に杉・檜が植林されるまでは、熊野街道周りはこのような薪炭林であった。薪炭林は10年周期位で伐採され薪や柴として利用されていた。
伐採した後は樹高が低いし、薪炭木は落葉するので、熊野街道の眺望は良かった。
10:55-11:05 百閒ぐら
百閒ぐらのぐらは崖と言う意味だそうで、ここには杉・檜が生えていないので眺めが良い。
この辺り(南紀地方)の最高峰、大塔山(1122m)の頂上が、赤倉岳の左側に少し見える。拡大しないと判らない。
11:06
11:30 賽の河原地頭
熊野詣の道中に亡くなった人を弔うために建てられた地蔵。
その前に積み上げられた石を賽の河原に例えたのでしょうが、今も石を積む人がいるようだ。
11:43
地元の文化人嶋正央の歌碑 「歩まねば供養ならずと亡き母がのたまいていし雲取に来ぬ」
12:06 針葉樹は根が浅く、樹高が高いので、大風が吹くと倒壊する。
12:26 針葉樹は眺望が悪い
12:26
12:36-50 桜茶屋跡
桜茶屋の南面には杉・檜が植えておらず、眺めが良い。
13:19 小和瀬の集落がちらっと見えた。
13:30 平松いとど の歌碑
「男手に牡丹餅にぎり山祭り 」
13:36
13:37 尾切地頭
13:37 平坦地(昔は畑だったと思うが、今は杉・檜が植えられている)
13:41
13:41
13:45 小和瀬の集落に下りて来た。
13:47 小和瀬の渡し場 (最近雨が降っていないので、赤木川の水量は少なく歩いて渡れる)
13:48 明治5年の渡場賃銭
14:04 廃校になった中学校の校庭と校舎
校庭の向こう側の校舎が今夜の宿「小口自然の家」
14:10
部屋は和室で、2食で8000円位でした。
同宿者は、アメリカ人夫婦1組、香港からの若い女性2人組、名古屋の男性1名で、明日は全員那智に向かうという事でした。
小口の宿の予約が取れなかったので、テントを持って行くことも考えていたが、廃校を宿泊施設にした小口自然の家がやっと予約できたので、出発した。
1日目は本宮に車を置き、本宮から小口までの小雲取越えを歩き、小口泊。
2日目は小口から那智の滝までの大雲取越えを歩き、バスで那智の滝からJR那智駅、JRで那智駅から新宮駅、バスで新宮から本宮まで移動し、本宮に置いていた車で帰る計画。
小雲取越地図
11月17日(木)
<コースタイム>
8:15 本宮
9:05-10 請川古道登り口
10:15-25 松畑茶屋
10:55ー11:05 百閒ぐら
11:25-25 賽の河原地蔵
11:45 石堂茶屋跡
12:38-50 桜茶屋跡
14:10 小口自然の家(元小口中学校)
8:15 大斎原(おおゆのはら)
明治22年の洪水で流されるまで、熊野本宮大社はここ熊野川・音無川・岩田川の合流点にある大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にあった。平安時代から明治22年まで、長期に渡って熊野本宮大社はこの中州に鎮座していた。
大雨が降れば大量の砂利が流れてくるので、砂利が堆積して川底が上昇し、氾濫するようになったのだろう。
8:20 昔の熊野本宮大社跡
8:37 熊野川 上流(本宮)方向
8:37 熊野川下流方向
9:02 請川
本宮から請川までは熊野川沿いの国道168号を歩くが、ここ請川より古道に入る。
9:17 針葉樹の中の熊野古道
9:21 杉林の下に千両と万両が何本も生えていた。
9:50
昭和30年頃に、熊野街道周辺に針葉樹林(杉・檜)が植林され、ほとんど針葉樹林(杉・檜)の中を歩くことになるが、僅かではあるが本来の薪炭林(コナラ、クヌギ、ウバメガシ、サクラ、エノキ等)が残っている。
9:50
薪炭樹林は木が大きくなっても、木洩れ日は柔らかく、春の新緑や山桜、秋の紅葉、蝶々や昆虫、小鳥のさえずりも楽しめた。また10年周期程で薪(まき)柴(しば)用として伐採されていたので、伐採後は眺望がよかった。
10:15
今の針葉樹林の熊野街道は、薄暗く風は通らず、眺望も悪く、新緑や山桜や紅葉や昆虫とも無縁で、鳥のさえずりも聞こえない。
10:15-25 松浦茶屋跡
10:30
10:50
10:50
一部の隙間を拡大して写真を撮ったが、本来の熊野街道はこのような遠望が楽しめたので人気があったのだと思う。
昭和30年頃に杉・檜が植林されるまでは、熊野街道周りはこのような薪炭林であった。薪炭林は10年周期位で伐採され薪や柴として利用されていた。
伐採した後は樹高が低いし、薪炭木は落葉するので、熊野街道の眺望は良かった。
10:55-11:05 百閒ぐら
百閒ぐらのぐらは崖と言う意味だそうで、ここには杉・檜が生えていないので眺めが良い。
この辺り(南紀地方)の最高峰、大塔山(1122m)の頂上が、赤倉岳の左側に少し見える。拡大しないと判らない。
11:06
11:30 賽の河原地頭
熊野詣の道中に亡くなった人を弔うために建てられた地蔵。
その前に積み上げられた石を賽の河原に例えたのでしょうが、今も石を積む人がいるようだ。
11:43
地元の文化人嶋正央の歌碑 「歩まねば供養ならずと亡き母がのたまいていし雲取に来ぬ」
12:06 針葉樹は根が浅く、樹高が高いので、大風が吹くと倒壊する。
12:23 斎藤茂吉の歌碑
「まさびしきものとぞ思ふたたなづく青山のまの川原を見れば」
「まさびしき」は寂しい、「たたなづく」は青山にかかる枕言葉で「幾重にも」の意、「青山のまの川原」は幾重にも重なる山の間に見えた川のことか。
12:26 針葉樹は眺望が悪い
12:26
「どちらへも遠き山路やおそ桜」
12:36-50 桜茶屋跡
桜茶屋の南面には杉・檜が植えておらず、眺めが良い。
13:19 小和瀬の集落がちらっと見えた。
13:30 平松いとど の歌碑
「男手に牡丹餅にぎり山祭り 」
13:36
13:37 尾切地頭
13:37 平坦地(昔は畑だったと思うが、今は杉・檜が植えられている)
13:41
13:41
13:45 小和瀬の集落に下りて来た。
13:47 小和瀬の渡し場 (最近雨が降っていないので、赤木川の水量は少なく歩いて渡れる)
13:48 明治5年の渡場賃銭
14:04 廃校になった中学校の校庭と校舎
校庭の向こう側の校舎が今夜の宿「小口自然の家」
14:10
部屋は和室で、2食で8000円位でした。
同宿者は、アメリカ人夫婦1組、香港からの若い女性2人組、名古屋の男性1名で、明日は全員那智に向かうという事でした。
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