自己紹介

ローカルバスや汽車で移動し、現地の人が好む屋台飯を食べ、安いホテルに泊まる、お金をかけない旅行を楽しんでいます。 メジャーな観光地よりも、自然と人の暮らしが調和した山村や漁村の風景が好きです。 イソヒヨは磯で見かける鳥ですが、ブログのタイトルにした理由は特にありません。

2013年1月13日日曜日

ペリー艦隊はなぜ太平洋を横断して来なかったのか?

最近、山本一力の捕鯨小説"くじら組”を読んだが、土佐の鯨山見が遠くに黒い物体を発見し、江戸まで知らせるという話がある。後で判る事であるが、この黒い物体はペリー艦隊であった。

ペリー艦隊の航路が気になったので調べてみたが、
アメリカ西海岸より太平洋を横断して来たのではなく、大西洋を横断し、喜望峰、インド、シンガポール、香港を経てやってきたとの事であった。
<ペリー艦隊の航路>

 


1852年11月24日     :ノーホーク出港
1852年12月11日     :マディラ島到着
1853年1月24日              ;ケープタウン
1853年2月18日              ;モーリシャス
1853年3月10日              :セイロン

1853年3月25日              :シンガポール
1853年4月7日               :マカオ到着
1853年4月28日              :香港出港
1853年5月4日~17日      :上海
1853年5月26日~6月9日:沖縄

1853年6月14日~18日  :小笠原
1853年6月23日~7月2日:再度沖縄
1853年7月8日                   :浦賀来航
1853年7月17日               :香港へ出港
 (香港に滞在)
1854年2月11日               :再来航
 (和親条約下田条約を締結)
1854年6月25日               :日本を出港し香港へ

香港に帰着後、ペリーはアメリカの東インド艦隊司令官を辞任し、定期船や
鉄道を乗り継いで、ヨーロッパ経由 のルートで帰国。
(香港→スエズ→カイロ→アレキサンドリア →トリエステ→ウィーン→ドレスデン→ベルリン
  →ハーグ→イギリス→ニューヨーク)

一方、艦隊は、
1854年9月12日 :香港を出港 (太平洋を横断し南米のホーン岬を回って帰国。途中、下田、ホノルル、リオデジャネイロに寄港。)
1855年1月12日 :ニューヨーク到着

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誰でも知っている事だったのかも知れないが、以上の事を私は知らなかった。太平洋で捕鯨する船の寄港地を確保する事が、アメリカの艦隊派遣の目的だと
聞いていたので、
なぜ太平洋を横断して来なかったのか?
解せなかったので、少し調べてみた。


1)なぜアメリカの太平洋側から出港しなかったのか?

 →アメリカの西海岸は長く
メキシコの領土であった。
   
米墨戦争でメキシコに勝った事により、1848年カリフォルニアはアメリカ領と
   なった。
  
1852年当時、西海岸はアメリカ領になったばかりで、ここにアメリカ海軍の
  艦隊は無かった。

2)アメリカ東海岸を出港するとしても、
南アメリカのホーン岬を回って太平洋を横断して
 来た方が近道だと思うが、なぜはるばる
大西洋から来たのか?
 (この艦隊は、帰路、太平洋を横断して、南アメリカのホーン岬を回ってニューヨークへ
  帰っている。所要日数は4ヶ月。大西洋から来た往路は7ヶ月かかっている)

 →太平洋航路では石炭が補給が出来ないので、大西洋から来たと言われているが、
   納得できない。
  4隻のうち蒸気船が2隻、帆船が2隻であり、蒸気船も帆走できるので、
      その気になれば太平洋航路で来れたように思う。

  1935年に設立されたアメリカ東インド艦隊の第10代司令官としてペリーは
  この航海を指揮したが、当時のアメリカ
東インド艦隊は太平洋航路について
  馴染みがなく、不案内であったのかもしれない。

  また、当時のアメリカ海軍は経験が少なく、
難破が絶えなかったホーン岬の
  時化(しけ)が怖かったのかもしれない。

   1854年香港に到着後、ペリーは、海軍司令官を辞任し、定期船を使って
香港から
    ヨーロッパを経由してアメリカに帰っているが、彼がリスクのある航海を好まなかった
   のかも知れない。
  ペリー
が艦隊を離脱した後、この艦隊は太平洋を横断しホーン岬を回って、ニューヨークまで
  帰っている。ほとんど帆走したはず。

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この頃、既に南太平洋に来た人が多かったのではないかと思って調べたら、宝島を書いた
スティーヴンソンが南太平洋のサモアを取材したのは1880年、ゴーギャンがタヒチに渡ったのが1891年、サムセット・モームが南太平洋に来たのは1916年頃であった。
ハワイは、1778年ジェームズクックが来航、1789年アメリカ国籍の船が初来航、1849年アメリカ/ハワイの修好通商条約、1893年アメリカ海軍のハワイ上陸、1900年実質的にアメリカ領土となっている。

ジョン万次郎が遭難したのは1841年、鳥島でアメリカの捕鯨船に救助されアメリカで暮らした後、琉球に上陸したのは1851年。
ジョン万次郎が帰国した翌年、ペリーが日本に向った事になる。
カリフォルニアのゴールドラッシュが始まったのは1848年、アメリカ横断鉄道の開通は1869年、パナマ運河の開通は1914年という事であり、アメリカ西海岸、太平洋の関心が高まった時期であった。
 
アメリカが日本の鎖国を打ち破ったにも関わらず、幕末から明治初期にかけて、日本への係わりが少なかったのは、
1861年 - 1865年にかけての南北戦争が影響したのかもしれない。

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