最近、山本一力の捕鯨小説"くじら組”を読んだが、土佐の鯨山見が遠くに黒い物体を発見し、江戸まで知らせるという話がある。後で判る事であるが、この黒い物体はペリー艦隊であった。
ペリー艦隊の航路が気になったので調べてみたが、アメリカ西海岸より太平洋を横断して来たのではなく、大西洋を横断し、喜望峰、インド、シンガポール、香港を経てやってきたとの事であった。
<ペリー艦隊の航路>
1852年11月24日 :ノーホーク出港
1852年12月11日 :マディラ島到着
1853年1月24日 ;ケープタウン
1853年2月18日 ;モーリシャス
1853年3月10日 :セイロン
1853年3月25日 :シンガポール
1853年4月7日 :マカオ到着
1853年4月28日 :香港出港
1853年5月4日~17日 :上海
1853年5月26日~6月9日:沖縄
1853年6月14日~18日 :小笠原
1853年6月23日~7月2日:再度沖縄
1853年7月8日 :浦賀来航
1853年7月17日 :香港へ出港
(香港に滞在)
1854年2月11日 :再来航 (和親条約下田条約を締結)
1854年6月25日 :日本を出港し香港へ
香港に帰着後、ペリーはアメリカの東インド艦隊司令官を辞任し、定期船や
鉄道を乗り継いで、ヨーロッパ経由 のルートで帰国。
(香港→スエズ→カイロ→アレキサンドリア →トリエステ→ウィーン→ドレスデン→ベルリン
→ハーグ→イギリス→ニューヨーク)
一方、艦隊は、
1854年9月12日 :香港を出港 (太平洋を横断し南米のホーン岬を回って帰国。途中、下田、ホノルル、リオデジャネイロに寄港。)
1855年1月12日 :ニューヨーク到着
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰でも知っている事だったのかも知れないが、以上の事を私は知らなかった。太平洋で捕鯨する船の寄港地を確保する事が、アメリカの艦隊派遣の目的だと
聞いていたので、なぜ太平洋を横断して来なかったのか?
解せなかったので、少し調べてみた。
1)なぜアメリカの太平洋側から出港しなかったのか?
→アメリカの西海岸は長くメキシコの領土であった。
米墨戦争でメキシコに勝った事により、1848年カリフォルニアはアメリカ領と
なった。
1852年当時、西海岸はアメリカ領になったばかりで、ここにアメリカ海軍の
艦隊は無かった。
2)アメリカ東海岸を出港するとしても、南アメリカのホーン岬を回って太平洋を横断して
来た方が近道だと思うが、なぜはるばる大西洋から来たのか?
(この艦隊は、帰路、太平洋を横断して、南アメリカのホーン岬を回ってニューヨークへ
帰っている。所要日数は4ヶ月。大西洋から来た往路は7ヶ月かかっている)
→太平洋航路では石炭が補給が出来ないので、大西洋から来たと言われているが、
納得できない。
4隻のうち蒸気船が2隻、帆船が2隻であり、蒸気船も帆走できるので、
その気になれば太平洋航路で来れたように思う。
1935年に設立されたアメリカ東インド艦隊の第10代司令官としてペリーは
この航海を指揮したが、当時のアメリカ東インド艦隊は太平洋航路について
馴染みがなく、不案内であったのかもしれない。
また、当時のアメリカ海軍は経験が少なく、難破が絶えなかったホーン岬の
時化(しけ)が怖かったのかもしれない。
1854年香港に到着後、ペリーは、海軍司令官を辞任し、定期船を使って香港から
ヨーロッパを経由してアメリカに帰っているが、彼がリスクのある航海を好まなかった
のかも知れない。
ペリーが艦隊を離脱した後、この艦隊は太平洋を横断しホーン岬を回って、ニューヨークまで
帰っている。ほとんど帆走したはず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この頃、既に南太平洋に来た人が多かったのではないかと思って調べたら、宝島を書いたスティーヴンソンが南太平洋のサモアを取材したのは1880年、ゴーギャンがタヒチに渡ったのが1891年、サムセット・モームが南太平洋に来たのは1916年頃であった。
ハワイは、1778年ジェームズクックが来航、1789年アメリカ国籍の船が初来航、1849年アメリカ/ハワイの修好通商条約、1893年アメリカ海軍のハワイ上陸、1900年実質的にアメリカ領土となっている。
ジョン万次郎が遭難したのは1841年、鳥島でアメリカの捕鯨船に救助されアメリカで暮らした後、琉球に上陸したのは1851年。
ジョン万次郎が帰国した翌年、ペリーが日本に向った事になる。カリフォルニアのゴールドラッシュが始まったのは1848年、アメリカ横断鉄道の開通は1869年、パナマ運河の開通は1914年という事であり、アメリカ西海岸、太平洋の関心が高まった時期であった。
アメリカが日本の鎖国を打ち破ったにも関わらず、幕末から明治初期にかけて、日本への係わりが少なかったのは、1861年 - 1865年にかけての南北戦争が影響したのかもしれない。
ペリー艦隊の航路が気になったので調べてみたが、アメリカ西海岸より太平洋を横断して来たのではなく、大西洋を横断し、喜望峰、インド、シンガポール、香港を経てやってきたとの事であった。
<ペリー艦隊の航路>
1852年11月24日 :ノーホーク出港
1852年12月11日 :マディラ島到着
1853年1月24日 ;ケープタウン
1853年2月18日 ;モーリシャス
1853年3月10日 :セイロン
1853年3月25日 :シンガポール
1853年4月7日 :マカオ到着
1853年4月28日 :香港出港
1853年5月4日~17日 :上海
1853年5月26日~6月9日:沖縄
1853年6月14日~18日 :小笠原
1853年6月23日~7月2日:再度沖縄
1853年7月8日 :浦賀来航
1853年7月17日 :香港へ出港
(香港に滞在)
1854年2月11日 :再来航 (和親条約下田条約を締結)
1854年6月25日 :日本を出港し香港へ
香港に帰着後、ペリーはアメリカの東インド艦隊司令官を辞任し、定期船や
鉄道を乗り継いで、ヨーロッパ経由 のルートで帰国。
(香港→スエズ→カイロ→アレキサンドリア →トリエステ→ウィーン→ドレスデン→ベルリン
→ハーグ→イギリス→ニューヨーク)
一方、艦隊は、
1854年9月12日 :香港を出港 (太平洋を横断し南米のホーン岬を回って帰国。途中、下田、ホノルル、リオデジャネイロに寄港。)
1855年1月12日 :ニューヨーク到着
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・誰でも知っている事だったのかも知れないが、以上の事を私は知らなかった。太平洋で捕鯨する船の寄港地を確保する事が、アメリカの艦隊派遣の目的だと
聞いていたので、なぜ太平洋を横断して来なかったのか?
解せなかったので、少し調べてみた。
1)なぜアメリカの太平洋側から出港しなかったのか?
→アメリカの西海岸は長くメキシコの領土であった。
米墨戦争でメキシコに勝った事により、1848年カリフォルニアはアメリカ領と
なった。
1852年当時、西海岸はアメリカ領になったばかりで、ここにアメリカ海軍の
艦隊は無かった。
2)アメリカ東海岸を出港するとしても、南アメリカのホーン岬を回って太平洋を横断して
来た方が近道だと思うが、なぜはるばる大西洋から来たのか?
(この艦隊は、帰路、太平洋を横断して、南アメリカのホーン岬を回ってニューヨークへ
帰っている。所要日数は4ヶ月。大西洋から来た往路は7ヶ月かかっている)
→太平洋航路では石炭が補給が出来ないので、大西洋から来たと言われているが、
納得できない。
4隻のうち蒸気船が2隻、帆船が2隻であり、蒸気船も帆走できるので、
その気になれば太平洋航路で来れたように思う。
1935年に設立されたアメリカ東インド艦隊の第10代司令官としてペリーは
この航海を指揮したが、当時のアメリカ東インド艦隊は太平洋航路について
馴染みがなく、不案内であったのかもしれない。
また、当時のアメリカ海軍は経験が少なく、難破が絶えなかったホーン岬の
時化(しけ)が怖かったのかもしれない。
1854年香港に到着後、ペリーは、海軍司令官を辞任し、定期船を使って香港から
ヨーロッパを経由してアメリカに帰っているが、彼がリスクのある航海を好まなかった
のかも知れない。
ペリーが艦隊を離脱した後、この艦隊は太平洋を横断しホーン岬を回って、ニューヨークまで
帰っている。ほとんど帆走したはず。
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この頃、既に南太平洋に来た人が多かったのではないかと思って調べたら、宝島を書いたスティーヴンソンが南太平洋のサモアを取材したのは1880年、ゴーギャンがタヒチに渡ったのが1891年、サムセット・モームが南太平洋に来たのは1916年頃であった。
ハワイは、1778年ジェームズクックが来航、1789年アメリカ国籍の船が初来航、1849年アメリカ/ハワイの修好通商条約、1893年アメリカ海軍のハワイ上陸、1900年実質的にアメリカ領土となっている。
ジョン万次郎が遭難したのは1841年、鳥島でアメリカの捕鯨船に救助されアメリカで暮らした後、琉球に上陸したのは1851年。
ジョン万次郎が帰国した翌年、ペリーが日本に向った事になる。カリフォルニアのゴールドラッシュが始まったのは1848年、アメリカ横断鉄道の開通は1869年、パナマ運河の開通は1914年という事であり、アメリカ西海岸、太平洋の関心が高まった時期であった。
アメリカが日本の鎖国を打ち破ったにも関わらず、幕末から明治初期にかけて、日本への係わりが少なかったのは、1861年 - 1865年にかけての南北戦争が影響したのかもしれない。
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