自己紹介

ローカルバスや汽車で移動し、現地の人が好む屋台飯を食べ、安いホテルに泊まる、お金をかけない旅行を楽しんでいます。 メジャーな観光地よりも、自然と人の暮らしが調和した山村や漁村の風景が好きです。 イソヒヨは磯で見かける鳥ですが、ブログのタイトルにした理由は特にありません。

2012年10月16日火曜日

2012年春旅行 84日目(新鑑真号2日目)  Shanghai to Kobe Ferry, 2nd day

2012年6月3日 晴れ (June 3, 2012   Fine )

19世紀の上海


1930年の上海租界(外灘(ワイタン)、BUND)
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アヘン戦争をきっかけに、1843年イギリスが上海に土地を租借し、続いて1848年にアメリカ合衆国、1849年にフランスもそれぞれ土地を租借。
娯楽が豊富にあったために「この街を一度訪れたい」と思うような魅力的な街となり、更に
現代的な建物を立て、最新の消費文明を享受した。

豊かになるに従って、さらに多くの外国人が訪れるようになり、中国人も仕事を求めて多数流入し、産み出された莫大な富は上海に
摩天楼を築き上げた。極東一の大都市となり、最盛期には150万人を超える人間が、狭い租界の中に暮らした。
1941年太平洋戦争が起き日本が英米との間に開戦すると、日本軍は共同租界に進駐し、敵国人となった英米人は抑留され、同時に上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は閉鎖された。
さらに世界を巻き込んだ大戦となったために輸出入も滞り、経済的インフラストラクチャーを失った上海租界は衰退した。

そして
1943年南京汪兆銘政権が公式に共同租界、フランス租界を接収し租界の歴史は終わりを迎えた。
1945年に第二次世界大戦が終結し日本軍は撤収し、一度いなくなった欧米人たちも上海に戻り始めた。

しかし1949年に
国共内戦で国民党が敗退し、それ以降は上海を中国共産党が支配し、上海租界の繁栄を支えた英米の銀行や企業は再び閉鎖され、全ての欧米人はイギリスの植民地である香港シンガポールをはじめとする国外へと逃げ去った上に、全ての資産は中国共産党に接収された。



10:04 (今日から日本時間、上海を出港して19時間経過)
東シナ海を航行、何も見えない。
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14:13(上海を出港して25時間経過)
右側に五島列島が見えてきた。
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14:32
船内のロビーに貼られていた上海ワイタン(The Band)の定点写真

1880年
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1940年
今残っている建物は、この時期に全て建てられている。
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現在(2011年)
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百年航運
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<あてすっぽの解釈>
元代には県が無かった。(田舎の村しかなかった。)
1843年対外開放。1853年全国で最大の貿易口岸(港)。
1930年、遠東ビジネスの中心、会議センター、航運センターとなる。


14:34
小さな島が多い。(五島列島の属島)

五島列島は北東側から南西側にかけて80Kmの間に大小140あまりの島が連なる列島
(更に南西側の男女群島まで含めると150Kmの列島)
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15:38
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18:02 
知り合いになった方々
(新しいビジネスを探して中国を回られた方と、安徽省の大学に留学された方)
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18:16 
九州ではあるが、何処か判らない。
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18:28 南西方向
右舷後方に見える港は、若松辺りかもしれない。
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18:28 日の入り
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18:28
関門海峡に向かって突っ込んでいく。
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18:48
左前方の細い海峡に進入していく。
瀬戸内海の入り口、この辺りの九州側は、戸畑、小倉、門司、関門橋とV字型になっており、下関の先端がそのV字型に突っ込んでいるのだ。
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18:48 
右側は下関側の先端。
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18:58
西側、下関の後方に日が沈む。
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18:59
関門橋が見えてきた。
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19:01 門司港
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19:03
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19:04 関門橋通過
東側(門司側)には、お月さん。
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19:04 関門橋
西側(下関側)には夕日。
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19:17 
周防灘に入ると海は広くなり、月の方向、東へ進む。
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19:20
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19:40
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